正法眼蔵・仏性17
毎週日曜に開かれている流転会の勉強会、正法眼蔵・仏性の第17回の復習です。今回も高野さんの担当。
今日は無方老師が用事のため駆け足になってしまいましたが、とても大事なことをお話しいただいたと思います。
本文
一衆いま圓月相を望見すといへども、目所未見なるは、説法蘊の轉機なり、現自在身の非聲色なり。即隱、即現は、輪相の進歩退歩なり。復於座上現自在身の正當恁麼時は、一切衆會、唯聞法音するなり、不覩師相なるなり。
尊者の嫡嗣迦那提婆尊者、あきらかに滿月相を識此し、圓月相を識此し、身現を識此し、諸佛性を識此し、諸佛體を識此せり。入室瀉缾の衆たとひおほしといへども、提婆と齊肩ならざるべし。提婆は半座の尊なり、衆會の導師なり、全座の分座なり。正法眼藏無上大法を正傳せること、靈山に摩迦訶葉尊者の座元なりしがごとし。
龍樹未廻心のさき、外道の法にありしときの弟子おほかりしかども、みな謝遣しきたれり。龍樹すでに佛となれりしときは、ひとり提婆を附法の正嫡として、大法眼藏を正傳す。これ無上佛道の單傳なり。しかあるに、僭僞の邪群、ままに自稱すらく、われらも龍樹大士の法嗣なり。論をつくり義をあつむる、おほく龍樹の手をかれり、龍樹の造にあらず。むかしすてられし群徒の、人天を惑亂するなり。佛弟子はひとすぢに、提婆の所傳にあらざらんは、龍樹の道にあらずとしるべきなり。これ正信得及なり。しかあるに、僞なりとしりながら稟受するものおほかり。謗大般若の衆生の愚蒙、あはれみかなしむべし。
その場にいた人々が円月相を目にしながら見ることができなかったということは、説法の力の現れなのだ、仏の自在身の本体なのだ。座上において自在身を現したまさにそのとき、彼らは仏法の声を聞くが、龍樹尊者の真の姿を捉えられなかったのだ。
龍樹尊者の後継者である迦那提婆尊者は、あきらかに満月の相を知り、円月の相を知り、身現を知り、仏性を知り、仏の本体を知った。龍樹尊者の多くの弟子の中でも、提婆に比肩する人はいないだろう。提婆は龍樹尊者と共に座るほどの人、人々の教師、全ての教えを受け継いだ人なのだ。釈尊のときの摩迦訶葉尊者のように、仏道の真理を正しく受けついだのだ。
龍樹は仏法に帰依する前、外道の修行者であった。そのときにも多くの弟子がいたが、全て師弟関係を絶縁して帰らせた。龍樹が仏となったとき、ひとり提婆のみに仏法を伝えた。これが無上仏道の単伝というものだ。
それなのに偽物の悪者たちは我々も龍樹尊者の法を継いだと自称する。論書を作り解釈書を作るけれど、龍樹の言葉を借りてきただけで龍樹の教えではない。絶縁された者が世の人を惑わしているのだ。仏弟子の我々は提婆に伝わったものでなければ龍樹尊者の道ではないと知らなければならない。これは正しい信仰によってはじめてできることなのだ。だが偽物と知りながら受け入れる人も多い。般若の教えを謗る愚かさ、哀れで悲しいことである。
迦那提婆尊者、ちなみに龍樹尊者の身現をさして衆會につげていはく、此是尊者、現佛性相、以示我等。何以知之。蓋以無相三昧形如滿月。佛性之義、廓然虚明(此れは是れ尊者、佛性の相を現じて、以て我等に示すなり。何を以てか之れを知る。蓋し、無相三昧は形滿月の如くなるを以てなり。佛性の義は、廓然として虚明)なり。
いま天上人間、大千法界に流布せる佛法を見聞せる前後の皮袋、たれか道取せる、身現相は佛性なりと。大千界にはただ提婆尊者のみ道取せるなり。餘者はただ、佛性は眼見耳聞心識等にあらずとのみ道取するなり。身現は佛性なりとしらざるゆゑに道取せざるなり。祖師のをしむにあらざれども、眼耳ふさがれて見聞することあたはざるなり。身識いまだおこらずして、了別することあたはざるなり。無相三昧の形如滿月なるを望見し禮拜するに、目未所覩なり。佛性之義、廓然虚明なり。
しかあれば身現の説佛性なる、虚明なり、廓然なり。説佛性の身現なる、以表諸佛體なり。いづれの一佛二佛か、この以表を佛體せざらん。諸佛體は身現なり、身現なる佛性あり。四大五蘊と道取し會取する佛量祖量も、かへりて身現の造次なり。すでに佛體といふ、蘊處界のかくのごとくなるなり。一切の功徳、この功徳なり。佛功徳はこの身現を究盡し、嚢括するなり。一切無量無邊の功徳の往來は、この身現の一造次なり。
提婆は龍樹尊者の円月相をさして皆に言った。「これは尊者が仏性の相を表して我々に見せているのだ。どうして分かるのか?それは無相三昧はその形満月のようなものだからだ。仏性の境地は廓然として虚明なのだ。」
いま世界の人々の間に伝わっている仏法を見聞きしてきた修行者たちの中で、龍樹の身現相が仏性だと言った者があっただろうか。ただ提婆尊者一人だけが言っている。他の人々はただ、仏性とは眼に見、耳に聴き、心に識るなどのものではないと表現するのみである。この姿が仏性とは知らないからいい得ないのである。祖師が惜しんで教えなかったのではないのだが、ただ眼も耳もふさがっているから見聞することができないのである。あるいは、それをそうと識るべき判断力のレベルにいたらないから判断することができないのである。身に現れる満月のような相を眺めこれを礼拝するとき、目には見えない仏性が現れる。仏性は虚しくただ何のわだかまりもなく明るいのだ。
このようであるから、龍樹の円月相が身に現れて説くとき、仏性は虚しく明るいものであり、何のわだかまりもなくからりとしている。仏性を説くために現じた姿は、諸仏の実体が顕われたものである。見に現れたものとして仏性はあるのだ。どの仏であってもこのように現さない仏などない。仏の実体はその姿である。姿として現われる仏性があるのである。仏体というのは、この世界のありようすべてがそうなのである。一切のことがそれによるのである。仏の功徳というのも、その姿に尽き、その姿に究極する。その数かぎりない功徳のひとつひとつが、その姿の唯一の現われにほかならないのである。
- 龍樹が円月相を表して、迦那提婆は気づいたが他の者は気づかなかった
- 語り得ないものなのに、どうして見解が一致するのか
- 龍樹が世界の開闢を現し、迦那提婆は自分の世界の開闢に気づいた
- 保証するものは何もない
- ゲームの駒の話をしているか、これはゲームだという話をしているか、どちらに沿った行動なのかでなんとなく分かってくる
- こうだと思ったとき、それは概念と化すのでズレてしまう
- 説似一物即不中
- 師匠はそれを壊さなければならない
- 龍樹の円月と迦那提婆の円月は同じものなのか?
- 違う。円月は唯一のものだから。
- (火童)龍樹は龍樹で唯一、迦那提婆は迦那提婆で唯一なのでしょうね。
- 語り得ないものなのに、どうして見解が一致するのか
しかあるに、龍樹提婆師資よりのち、三國の諸方にある前代後代、ままに佛學する人物、いまだ龍樹提婆のごとく道取せず。いくばくの經師論師等か、佛祖の道を蹉過する。大宋國むかしよりこの因縁を畫せんとするに、身に畫し心に畫し、空に畫し、壁に畫することあたはず、いたづらに筆頭に畫するに、法座上に如鏡なる一輪相を圖して、いま龍樹の身現圓月相とせり。すでに數百歳の霜華も開落して、人眼の金屑をなさんとすれども、あやまるといふ人なし。あはれむべし、萬事の蹉跎たることかくのごときなる。もし身現圓月相は一輪相なりと會取せば、眞箇の畫餠一枚なり。弄他せん、笑也笑殺人なるべし。かなしむべし、大宋一國の在家出家、いづれの一箇も、龍樹のことばをきかずしらず、提婆の道を通ぜずみざること。いはんや身現に親切ならんや。圓月にくらし、滿月を虧闕せり。これ稽古のおろそかなるなり、慕古いたらざるなり。古佛新佛、さらに眞箇の身現にあうて、畫餠を賞翫することなかれ。
しかるに、龍樹と提婆の師弟の後、インド・中国・日本の三国の過去から現在までの中の勝手に仏道を学ぶ人々は、仏性について龍樹と提婆のようには言わない。どれだけ多くの経師論師などが仏祖の道を誤って受け取ったことか。大宗国では昔からこの説話を絵に描こうとするのに、身に描き心に描き空に描き壁に描くこともできず、ただ筆を使って法座の上に鏡のような一つの輪を描いて、これを龍樹の身に現れた円月相だとした。
既に数百年の時が過ぎ、金屑ほどにたくさんの人が見たはずなのに、これが誤りだと言った人はいない。憐むべきことだ。全ては少し間違うとこのように大きな違いになってしまうのだ。もし龍樹の円月相が一つの円だと理解するなら、まさに絵に描いた餅だ。そんなものに騙されているようでは笑止千万だ。
悲しむべきことに、大宗国の在家出家の中のただ一人も龍樹の言葉を理解せず、提婆の道を見ることがなかったのだ。ましてや身に現れるということをありありと知ることなどあるだろうか。円月のことが分からず、満月を欠かしてしまった。これは仏祖に習うことがおろそかで、仏祖を信じ敬うことが足りないからだ。古仏、今の仏、さらに真実が現れているのを目の当たりにしながら、絵に描いた餅を喜んでいるようじゃいけない。
しるべし、身現圓月相の相を畫せんには、法座上に身現相あるべし。揚眉瞬目それ端直なるべし。皮肉骨髓正法眼藏、かならず兀坐すべきなり。破顔微笑つたはるべし、作佛作祖するがゆゑに。この畫いまだ月相ならざるには、形如なし、説法せず、聲色なし、用辯なきなり。もし身現をもとめば、圓月相を圖すべし。圓月相を圖せば、圓月相を圖すべし、身現圓月相なるがゆゑに。圓月相を畫せんとき、滿月相を圖すべし、滿月相を現すべし。しかあるを、身現を畫せず、圓月を畫せず、滿月相を畫せず、諸佛體を圖せず、以表を體せず、諸法を圖せず、いたづらに畫餠一枚を圖す、用作什麼(用て什麼にか作ん)。これを急著眼看せん、たれか直至如今飽不飢ならん。月は圓形なり、圓は身現なり。圓を學するに一枚錢のごとく學することなかれ、一枚餠に相似することなかれ。身相圓月身なり、形如滿月形なり。一枚錢、一枚餠は、圓に學習すべし。
知るべきである。身に現れた円月相を描こうと思うならば、法座の上に身が現れなくてはならない。背筋をしっかり伸ばせ。身体の全てをもって、正法眼蔵の全てをもって、どっしりと坐れ。このように仏に倣い祖師に倣えば、釈尊が蓮の花を捻り摩訶迦葉が破顔微笑した、あの正法も伝わるだろう。この身に現れるものを求めるならば、円月相を描け。円月相を描こうとするならば、身に現れるものが円月相なのだから、そのように円月相を描くのだ。円月相を描こうという時は満月相を描き、現すべきなのだ。
そうであるのに、身に現れるということを描かず、円月も、満月相、諸仏のお体、現れるものを体現せず、諸法を描かず、ただ無駄に餅のような円を描いている。それが何になるのか。直ちにこのことを見通せないのなら、何の腹の足しにもならないだろう。
月は円い。円は身の現れだ。円とは何かというとき、硬貨のような円形だと思ってはいけない。丸餅のような形だと思ってはいけない。身の相が円月のように完全な身なのだ。形が満月のように完全な形なのだ。硬貨、丸餅を描くにもそのような意味での円だと学びなさい。
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画餅
- 悪い意味か、良い意味か
- 画餅の巻では良い意味
- 仏法だの仏性だのと何も余計なことを言わず、ただ円を描くのみ
- ここでは批判的な意味
- 絵に描いた餅、概念だけで、実物が伴わない
- 画餅の巻では良い意味
- イデア論と仏教
- ナニ(概念)だけで、コレが伴っていない
- 悪い意味か、良い意味か
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全機の巻
- 空と仏性同じ、仏性は無とも表現されている
- 仏性は静的なものでなく動的、働き
- 多くの人々は全体の中のものはみるが、全体の全ての繋がりは見ない
- 全体の中の何か特定のものを自分とみなす
- 外に出ることはできない
- 絶対と相対の真理
- 絶対では何も言えなくなる
- 言葉は相対の真理についてしか表現できないのだが、言葉を使って絶対の真理を表現しようとする
- 矛盾だが、それでもそうせざるを得ない
円月相って図形で全て表せるものだとは思いませんが、ただの円でないならどんな絵を描けば近いでしょうか。 円の中心とは何のことで、円の縁は何のことで、円の内側は何のことで、円の外側は何のことでしょうか。
円の中心が自分、円周が自己だとすれば、こんな絵かな